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July 30, 2005

意味がわかりづらい説明

今日のYahoo!天気情報 - 東京(東京)の洗濯指数を見ていたら、7/30 が「乾きは遅いけどじっくり干そう - 指数:60」で、7/31 が「残念! 厚手のものは乾きにくい - 指数:70」となっていたんですが、この説明でどっちが洗濯に適しているかわかります? 僕はわからなかったので、60 とか 70 とかいう数字で判別できるんだろう、と思って下の「洗濯指数凡例」を見たのですが、シャツの数との対応が出てるだけで、数字の意味は直接説明されていません。

ここまでで、シャツの数が多いので数字が大きい方が洗濯に向いているのであろう、という予測はできます。しかし先の 70 の「残念! 厚手のものは乾きにくい」という説明をもう一度みると、これは「乾きにくい」ので「残念!」といっている。ネガティヴ。一方 60 は「遅い」んだけれども「干そう」だ。ポジティヴ。

ほかで調べてみると、やはり数字が大きいほうが洗濯に向いているということみたい。とすると、僕が迷ったのは本来よりポジティヴであるべき 70 の説明が 60 の説明よりネガティヴに読めてしまったところに問題があったわけだ。改善してくんないかなぁ。

なんか全体的に以前よりインターフェースが使いづらくなってるような気のする Yahoo! ですが…。

投稿者 ryoji : 11:45 AM | トラックバック

July 28, 2005

RDF と Hatena ID Auto-Discovery

naoyaのはてなダイアリー - 続々 Hatena ID Auto-Discovery
とか
Tociyuki::Diary - Hatena ID Auto-DiscoveryをRDFで考えてみました
とか、勉強になります。ちょっとしたメモ - 作者を表すURIとホームページのURIあたりの議論というのはやはりわかりづらいというか、とっつきにくい問題なような気がするのですが(とくにページが存在しなければ http: スキームでもよい、というあたりとか)、よく見ておかないとなー。でも自分のようにモノについての情報を扱うというのも、Web で直接アクセスできないものについて記述するという意味では同じような点に注意しとかないといけないんでしょうね。

ところで、ここの「ページ作者のアカウントを表すプロパティ」の定義を見ててふと思ったんですが、こうして作ったプロパティを上に書いてある FOAF と DC を使った表現に相当するというか、そのショートカットになってるということを示す方法ってないのかしらん。うーむ、自分の見た感じでは見つかりません…。CIDOC Conceprual Reference Model なんかだと(実装はともかく)そういう考え方があるので、なんとなくあると便利そうな気がするんですが。

投稿者 ryoji : 10:32 AM | トラックバック

July 25, 2005

ICC閉館の可能性

小耳に挟んではいたのですが、学芸員の四方さんから各方面に送られているらしいメールが、いくつかの Blog に転載されています。

ATAK | diary
Ruelog: ICC存続支持のお願い

ICC の公式サイトには何も出ていないようですが、転載されている本文によると、存続支持や意見のメール送付を求めているようです。スポンサーの NTT も私企業ですから、財政的に無理があるのであればやむを得ないのかもしれません。もちろん、これだけメディア・アートに絞ってはっきりとした性格づけのある施設は他にないので、私も可能なら是非存続してほしいとは思いますけれども (友人・知人もずいぶんお世話になっていますし)。しかし個人的には、文中の

またICCはコレクションを保持しており、活動のドキュメントやアーカイヴも含めこれらをいかに保管し長期的にアクセス可能にするかという問題も出ています。スポンサーであるNTT日本は、これらを公共的な財産として未来につなげていく大きな社会的責任を荷っています。

というのが一番気になるところです。

事情は違いますが、芦屋市美術博物館の問題もまだ決着がついていないようです。うーむ、なんとなくいろんなところで言われてますが、今後もさらにこうした危機を迎える館が出てくるのかもしれません…。

投稿者 ryoji : 10:41 PM | コメント (1) | トラックバック

July 23, 2005

JavaScript って入門以後に勉強する手段が少ない

Web 2.0 とか言われて Ajax も流行ってインターフェースの実装に JavaScript が結構本気で使われることが増えていると思いますが、資料がイマイチ充実してないように思います。書籍だと言語としての JavaScript をきちんと扱ってるのは O'reilly の 『JavaScript』 くらいではないでしょうか。書店で立ち読みとかしたかぎりでは、JavaScript の本は今だにほとんどがド素人向けという感じがします。「時間帯ごとに表示する挨拶を変える」とか、アホかと思う。Web 上に数多あるリファレンスの類いも、その多くはあまり違わないと思います。変に対話形式になってたり、説明が冗長すぎたりして読んでられません。あと内容が古い。上の O'reilly のサイ本もちょっともうさすがに古いので、新しい版を期待しているのですが。言語そのもののしっかりした解説書がほしいのは、、例えばイベントハンドラにセットするメソッドには引数が渡せないけどグローバル変数は使うべきでない、というような状況で、そうだクロージャがあるじゃないか、とか思いつけるようにしておくため。ついでに Venkman JavaScript Debugger とか DOM Inspector とかの使い方もつけておけば、案外売れるんじゃないかなぁ。

あとは以前にも紹介した 『JavaScript & DHTMLクックブック』 が使える素敵な本ですね。でも結局 O'Reilly かよ。クックブックだけでは作業できないので、いいリファレンスが欲しいです。僕も辞典的な本を一つ使っていますが、使いやすいのが本当に少ないですね。特に DOM の扱いが全体的に弱いのと、索引が貧弱。

で、ちょっと応用的なことをやろうとしたら、今一番役に立ってるのは様々な Blog の個別のエントリだったりします。Blog だとどうしてもバラバラな話になってしまうのですが、Blog 以外で多少ともまとまってるのだと、

あたりが勉強になりました。まぁ CSS + JavaScript でリッチなインターフェース、というのは基本的にはバッドノウハウまみれではあるのですが。

投稿者 ryoji : 07:50 AM | トラックバック

July 17, 2005

美術資料情報の基本問題 - 名称

名称、またはタイトル、題名などと呼ばれる情報は、人間がモノを識別・同定 (identifiy) するのに最初の手掛りとなるものです。というか、普通我々は資料について話すときにそのモノの名前を使っているはずです。で、これがまた、よく考えると結構面倒なのです。

美術資料の名前というと普通「タイトル」とか「題名」とか言われるものが思いうかべられると思いますが、これは何でしょうか。近代以降の美術では、作者がタイトルをつけることが普通になったので (たぶん展覧会に出したりしはじめることと関わりがあるんでしょう)、作者がその作品を命名したときのその名前、がタイトルと認識されていると思います。これは結構みんな自分の好きなように名前をつけてますよね。伝統的には、絵画や彫刻の名前はそこに描かれた対象に基いてつけられています。西洋美術でもこれは同じ。

一方で、工芸品や建築の場合は、現代ではタイトルがつけられる場合もあるでしょうけれど (これも展覧会などの制度との関わりってあるんじゃないかと予想しますが)、「タイトル」とか「題名」とは違うかたちで名前がつけられます。建築の場合はその施設・組織から名前がつけられるでしょうし、工芸品の場合はそのモノの機能にもとづいて、どちらかというと一般名詞的に名前がつけられます。「織部焼角鉢」とかね。

このように一口に「名称」といっても、ミュージアムには固有名的な性質の「タイトル」と一般名的な「品名」とが併存しているのです。このあたりについて、CIDOC のガイドライン (CIDOC IC) では Object Name Information と Object Title Information とを区別していて、固有名と一般名をわけるべき、と示唆しています。一方、CDWA では Titles or Names という具合にこれは一緒にされていて、どのような名称なのかを Type を使って示す、という戦略です。日本美術の場合を考えると、そもそも西洋美術の伝統の枠組みでいうような Fine Art と Craft の区別が厳然としていないこともあって、日本美術的になされた命名をどちらか一方に分類するというのは無理があるように思います。「源氏物語絵巻」ならタイトルで、「初音蒔絵硯箱」なら品名すなわち一般名、というのはかなり違和感あります。じゃあ「初音蒔絵硯箱」はタイトルということでいいじゃないかとするなら、「火焔土器」はどうでしょうか。これをタイトルと呼ぶのはちょっとツライでしょう。でもその区別の基準はあいまいだと思います。

どのような名前なのか、という点も重要で、これは例えば「無題」または「Untitled」の扱いに影響します。ふたたび CDWA によれば、

Do not use the word Untitled as a title unless the work has intentionally been called Untitled by the creator.

といっていて、作者が「無題」とつけたのか単に題が不詳なのかが区別できなければいかん、というわけです。ごもっとも。

名称についてもう一つ問題なのは、その名称の Authority です。「その作品の正式なタイトルは何か」という問いがなされる場面ってあると思うのですが、「正式」ということで何を意味しているかというと、それは権威付けされた (Authorized) 名称をさしているわけです。たぶんこういう問いが期待しているのは「俗に <大ガラス> と呼ばれるデュシャンの作品の正式なタイトルは <彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも> である (またはそのフランス語の原題である)」というような答でしょう。これは作者がつけたタイトルですから、その権威の源泉として作者が想定されているわけです。では作者が名前をつけなかった場合にはどうか。これは後世の人が名前をつけることになります。たとえばコレクター、たとえば博物館、たとえば文化庁。博物館所蔵の品の場合、おそらく所蔵館がつけた名前が権威あるものとして期待されるでしょう。ところが、これが実は一定していないのです。名前がコロコロ変わる。

展覧会ごとに、あるは出版物ごとに、違った名前が使われてしまうことが多いのです。まず一番多いのは表記ゆれ。旧字・新字や送り仮名のあつかいが一つの館でも統一されてないことが多いです。つぎに表現方法。ある時は「阿弥陀三尊像」、別の時には「阿弥陀如来および両脇侍像」と呼ばれたりします。展覧会の性質によって表示する名称が違ってくることもあるでしょう。このあたりは担当者に一貫した名称を使用するという意識そのものがないことが原因になることも多いでしょうが、バリエーションはないけれども名前が変わる、というケースもあります。例えば従来「如意輪観音像」と呼ばれてきたけれども、イコノグラフィー的に間違いが判明して実は如意輪じゃなかった、ということになるかもしれない。作者だって名前をつけかえることがあります。初出展覧会のときには A というタイトルで出したが、後年 B として発表した、とか。

しかもこうして様々につけられた名前というのが、美術史的にというか、受容史的には面白いネタになるかもしれないでしょ? 特に昔、江戸時代とか室町時代とかに何と呼ばれてたかわかったりすると面白いことがありそうです。だから過去につけられた名前をあっさり捨てるわけにもいかないのです。あるいは過去の文献を元にして現在の情報を探そうとしたときに、過去の情報と何もつながりがなくなってしまうと困る。少なくとも名前くらいは辿れたほうがいいでしょう、と思うわけです。ということで、美術資料の名称は、一つのモノでも複数の名があり、それぞれの名はそれぞれ違った背景・コンテクスト・事情でつけられたもので、それがどのような名前であるのかがわかるのが大事、とまとめられるでしょう。つけ加えるならば、その名が確認できる典拠が示されるとなお良いでしょう。

ところで古美術の命名は慣習的に行われているのですが、文化庁で指定文化財につける名前のスタイルというのがあります。重要文化財とか国宝として指定され、その台帳に載る名前なので、これはわりに権威があると言えるでしょう。名前を決めるのにも、かなり議論をして決めると聞いています。がぁ、これがやたら長いんですわ。たとえば「紙本墨画淡彩四季山水図」とか、「白地葵紋紫腰替辻が花染小袖」とか。よーく見てもらえばわかるんですが、色 (白地)、材料 (紙本)、文様 (葵)、技法 (墨画淡彩、辻が花染)、主題 (四季山水)、形態 (小袖)、などなどの情報がつめこまれてるんです。名前を見れば、だいたいモノの様子がわかる、という意味で合理的ではありますが、ちょっと慣れないと馴染みにくいですよね。

投稿者 ryoji : 02:07 PM | コメント (4) | トラックバック

バジル


DSCN0113
Originally uploaded by ryoji.

植えたバジルが相当ボサボサになってます。すでに何度かバジルペーストを作ったりもしたんですが、ぜんぜん減りません。というわけで写真をとってみました。ていうか flickr を使ってみたかっただけなんですが。

投稿者 ryoji : 12:13 AM | トラックバック

July 14, 2005

米国発 広がる「ブッククロッシング」

via サイコドクターぶらり旅(2005-07-13)

おもしろーい。

投稿者 ryoji : 01:38 PM | トラックバック

July 11, 2005

東京文化財研究所(編)『うごくモノ ― 「美術」以前の価値とは何か』

ようやく読了。

うごくモノ  「美術」以前の価値とは何か

2002年に行なわれたシンポジウムの報告書です。「モノの年輪」「モノの旅行記」「モノと人の力学」の3つのセッションに分けてあり、それぞれ時間の経過、空間的な移動、モノの起かれたコンテキストの変化を軸にして、様々な論考が展開しています。シンポジウムのページにも各プログラムの概要が載ってるますが、どれも非常に面白いです。また従来美術史が真正面からとりあげてこなかったようなモノがかなり出てきている点でも興味深いのですが、これも美術史の変化の一つの表れなのでしょうか。

特に印象に残ったのは、江戸時代に石をコレクションしてた人達についての「神代石の収集」、跋文が周到に用意された様子を分析した「題跋の追加とその価値」、有名なピカソの作品を扱った「ゲルニカのオデュッセイア」、実在した画家、しなかった画家と彼らへの評価について語る「作品のアイデンティティと画家の実存」、警鐘を鳴らす「とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化」、赤瀬川の千円札事件を扱った「「日常性への下降」から「芸術性への上昇」へ」といったあたり。

また別の機会に詳述しようと思っていますが、美術作品の情報の見方として、その製作から現在の状態にいたるまで、または作品が消失するまでの時間全体を、一つのライフサイクルにおいて捉えるという考え方がいいのではないかな、というようなことを、ここのところずっと考えてるんです。そういう意味でもタイムリーに読めて、かなり示唆的でした。うむ。

投稿者 ryoji : 12:56 AM | コメント (5) | トラックバック

写真はものの見方をどのように変えてきたか @ 東京都写真美術館

また最終日だよ! 東京都写真美術館の開館10周年特別企画展「写真はものの見方をどのように変えてきたか」の第2部「創造」を見てきました。ピクトリアリズムからストレート・フォト、バウハウスや日本の新興写真、というように19世紀末から戦前までを中心に、芸術としての写真、というか写真の芸術性についてなされた様々な試行錯誤が辿れる展示でした。前回もそうですが、この第2部も非常に充実したものでした。素晴しい。それにしても、東京都写真美術館ってかなり包括的なコレクションを持ってるんですね。こういう機会に、よく考えられたコレクションが十二分に活かされいると感じます。

余談というか自分の仕事柄ちょっと気がついたこと。写真の展示のときはいつもそうだったかどうか思い出せないのですが、キャプションの「技法」の欄には、基本的にプリントの方法が書いてあるんですね。「ゼラチン・シルバープリント」とか。ソフトフォーカスレンズを使ったとか、ディストーションとかソラリゼーションとか、モンタージュとかいう言葉は説明文の中には出てくるけれども、「技法」欄にはないのですよね。これはそこで「作品」とされているものは、その「プリントという物体」だからなのでしょうかね。いわゆる芸術写真で一番大事なモノ、というか真正性が問題になるのは「オリジナルプリント」なのだと聞いたことがありますが、そういうこととも関係あるかも。ひるがえって写真集とか見ると、あまりプリント方法について言及されていなかったりしますよね。そこ(写真集)における作品はきっと「像そのもの」という抽象的なものなのかもしれません。…というようなことについてまとまった文章があれば読んでみたいです。

投稿者 ryoji : 12:46 AM | トラックバック

Google Maps API は楽しい

Google Maps APIで遊んでみました。雰囲気を確かめただけで、お見せできるようなものは作ってませんが。楽しいなぁ。そんだけです。

奈文研遺跡データベースには世界測地系の入ってるデータもあり。いじってみたい…。

投稿者 ryoji : 12:29 AM | トラックバック

July 10, 2005

授業終了

前の職場である武蔵野美術大学 芸術文化学科には、引き続き非常勤講師としてお世話になっていたのですが、金曜日に前期の授業が終了しました。僕の担当してる授業「メディアと情報」は前期のみなので、これでしばらく大学のほうはお休みです。金曜は本業を休んでその分土曜に出勤してたので結構キツかったのですが、授業をやると必然的に自分も勉強をするのでいい機会になってたと思います。

授業では出席票をちょっと大きめのものを使っていて、感想や疑問を書いてもらってたのですが、読んでるといろいろと思うところがあります。ときどきハッとさせられるものがあるというか。

こないだの最後の回に美術情報、収蔵品の情報管理といった話をしたんですが、僕は「少なくとも日本においてはコレコレといった問題がある」といったことを言ったんですね。すると「なぜ欧米は進んでいるのに日本は遅れているのでしょうか」というようなことを複数の学生が書いてくる。「あっ」と思ったのです。僕は「欧米が進んでいる」なんて一言も言ってないはずなのです (「欧米」の中でかなり差があるので、そんな言いかたはしないはず)。ま、授業中寝てて適当書いただけかもしれませんが。でもそうでないとすると、ひょっとして学生たち、「欧米スゲー」「日本ダメ」がデフォルトになってないか? 彼らにそういう刷り込みがあるとしたら、もっと意識的に話し方を考えてやらないといけないな、と思ったのでした。

投稿者 ryoji : 12:18 AM | トラックバック

July 08, 2005

明治期の本を読む

国立国会図書館が近代デジタルライブラリーをやってるのは知っていましたが、実際調べものがあると、ありがたみがわかります。というか、わかりました。松平定信『集古十種』とかじっくり見ちゃった。高圧縮画像がプロプライエタリな形式なのが残念なような気もしますが、GIF があるので大丈夫。

投稿者 ryoji : 09:57 AM | トラックバック

美術資料情報の基本問題 - 単位

美術資料、いわゆる作品の情報について、どういう形でデータを採録するかといったことを考えるときに、考慮しなくてはならない基本的な問題がいくつかあります。その中でも根本的なものの一つとして、資料の単位について、言い換えれば「一つの作品」とは何か、というものがあります。ここで問われるのは「作品」じゃなくて「一つ」のほうです。普通、作品の情報というのは作品一つずつとることになるのですが、その「一つ」って何だ、という問題。

額に入った油絵なんかでは、たいてい一つの物体が一つの作品になっているので、比較的迷うことが少ないないかもしれません。しかし物理的にいくつかの物体からなる作品というのは結構あります。例えば一双の屏風は右隻・左隻の2つの物体からなる。仏像で三尊像だと3躯ある。上中下の3巻からなる絵巻。先の油絵だって、例えば三幅対を1つの作品とみるか3つの関連する作品とみるかは自明ではないでしょう。

一応、こういうよくあるパターンについては慣例的に一まとまりで一つの作品とみなすことも多いようです。その場合、各物体はその部分であると見做されます。でも上とは逆のパターンもあって、複数の作品と見做しうるものが一つの物体にまとまってるものとかもあるんですよね。例えば、尾形光琳の「風神雷神図屏風」の裏に酒井抱一が「夏秋草図屏風」を描いていたりします。これは今では別々にされていますが、かつては一体でした。あるいはかつて着物だった古い布切れを切って、屏風に貼り付けたりパッチワークみたいにしたものとかもある。もともとは直接関係のない能書家や宗教家の手紙を何通かまとめて一巻の巻物に仕立てたものもある。さて、ここにはいくつの作品があるのでしょうか。

さらに考古遺物を考えると、例えばコナゴナになってる土器片はどうするのか。何個分の土器が復元できるか見当もつかなかったりするわけです。ほかにも、誰かが亡くなって遺品を歴史的資料として博物館に寄贈する、ということはよくあるのですが、ダンボール何箱分もの資料の中に手紙もあればノートもあれば標本もあれば写真もある、とかね。で、この辺になると「一括資料」として特に数を云々しない場合が結構あるようです。それで「そちらの館には何件の資料があるのか」という問い合わせには大変答えにくいことになってしまうという。

というわけで、おそらく資料情報をとる単位というのは「その都度任意に決める」としかできないだろうと。資料に対する関心のあり方によって違ってくるところもあるし。細かいデータが必要なら、例えば婚礼用具一式の中の箪笥一つ、化粧道具一つ、というふうにとることもあるでしょう。そうでなければ一式まとめてデータをとることもあるでしょう。そこらへんは先験的に決めておくことはちょっと難しいだろうと思っています。美術館なんかでは資料の貸し借りがありますが、例えば鎧と兜で一具としてデータをとっておいても、兜だけ貸してほしい、なんてこともあるわけで、兜だけについて例えば保険のための評価額を出すとかしないといけないかもしれない。10枚組でデータをとった水彩画のうち1枚だけをある時展示したとしたら、作品保護のためにその1枚だけはしばらく時間が経つまで展示しない、ということになるかもしれない。このように、あらかじめ決めておいたとおりに資料情報が運用できるとは限りません。あと出来るのは、そうやって同じものについて異なるレベルでデータが作られたとき、その間の階層関係を維持する方法を考えるとか、そういう方向になってくるでしょう。

美術館・博物館のような組織に限っていえば、多少とも客観的で一貫性のある単位として、買取や寄贈によって受け入れたときのまとまりというのは使えるでしょう。あるまとまりに対してお金を払ったりしてるわけですから、それを一つの単位とみることには正当性がありそうです。資料番号なんかもおおむね受け入れと整合するように付けられているようですし。ただ先の一括資料のようなこともあるし、本来一つの作品として扱いたいものでも予算運用の都合で去年は1巻から5巻、今年は6巻から12巻を購入、なんてケースもおそらくあるでしょう。ひょっとすると、受入記録がほとんど残っていない個人の膨大なコレクションがまずあって、そのために作られた資料館とかもあるかもしれません (うーん、これはたぶん実際にあるな)。

Getty Research InstituteCategories for the Description of Works of Art では、どういうレベルでとられたデータなのか、item なのか group なのかなどを Object/Work の Catalog Level に記録せよ、ということになっています。レベルの選び方については

The level of specificity at which an art object, architecture, or group of works is described will depend on the practice of the individual institution.

また、

The whole/part designation of the work may be relative and changeable.

とも。だからまあそういうことです。しかしレベルについて item とか group とか collection とか書くことが required とされてるのはどうなんだろう? うーん、まあ日本語だと、員数 (ものの数) のデータに助数詞がつくので、「六曲一双」とか「3幅」とかあれば記述のレベルがわかりますね。

ああっ! "Revisions are currently ongoing through Summer 2005" って書いてある! これ今まさに改訂してんのかー。

あとちょっと自分の領域からはずれるのですが、文書(もんじょ)方面というかアーカイブズのほうでは「出所原則」というのがあって、資料の出所が基本的なまとまりになるようです。このまとまりを「フォンド」と呼んでいて、ある個人や組織の活動のなかで形成されてきた資料の総体として尊重しなさいと。違うフォンドに含まれる資料同士を混ぜたりくっつけたりしちゃ駄目なんだそうです。

なんかすごい散漫になってしまいましたが、こんな単純そうなことでも結構問題があるということで。

投稿者 ryoji : 09:25 AM | コメント (6) | トラックバック

July 05, 2005

指定管理者制度

博物館の図書室の7月3日分より。

司書は自分が今整理していることや行っていることが、100年後も博物館に残っていることを疑わずに仕事をしてきましたが、ここが揺らぐというのはなかなかきついものです。

博物館の人達は、100年後のこととかって、わりに本気で心配してます。それが必要な場なんですよね。それとその少し前、

美術関係でフリーキュレーターと名乗っている人たちがいるのは知っているけれど、そういう人は学芸員とは違うように思う(司書の感覚だけど)。

これは僕の感覚でもそうです。館職員としての学芸員はモノの面倒を見てる人達、というイメージが強いので。

指定管理者制度そのものについては、自分はあまりにもわかってないので直接コメントできませんが、しかしそんなことではダメですね。ちゃんと調べとこう。

投稿者 ryoji : 01:15 AM | トラックバック