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實松亮 "Chink of Frame" @ ノイエス朝日 [美術展]
JR新前橋駅からしばらく歩いたバイパス沿いに、ノイエス朝日はある。 新前橋の西口側はかなり静かなところである。店舗もほとんどない。 ノイエス朝日は、そんな場所ではなんだか唐突な感じがする。

去年のギャラリーNWハウスでの個展 "Limit" でも印象的だった木洩れ陽の 映像も使われた、ライトインスタレーションといった展覧会だった。 会場の左右の壁に、かなりきつい角度で木洩れ陽のスライドが投影されている。 中央には二枚の蛍光パネルが立ててあり、そのすき間にやはりスライドを使って 細長い光が投影されている。ちょうどパネルのすき間を光が通って 奥の壁に縦長の光があたっていて、すき間から光が洩れているかのような 格好だ。しかし、実際にはもともと縦長の光が出されているのであって、 パネルに遮られてそういう形の光ができているわけではない。

隙間というものは、単に距離が生む観念なのだろうか。2枚のパネルがもし もっと離れていたなら、その空隙を「隙間」として認識することはないだろう、 ということを、無造作に立てられた 2枚のパネルは思わせる。

側面のスライドも中央のすき間にあてられた光も、光が空間的なフォルムを持つ ということを思わせるものだ。光によって空間に境界を作る、というような。

ビルとビルの隙間に差し込んでくる光
太陽とその隙間との角度が重なり合った時、 一瞬の時間だけこれを体験することがある。
その隙間をすり抜ける光は隙間をどこまでも直進していき、 あの暗くどうしようもなかった隙間を照らす。
そこに僕が何かを見いだすのは何故だろう。
[1]
實松のこのテクストは、即座に『ねじまき鳥クロニクル』の 間宮中尉の話を思い出させる。 間宮中尉は戦場で捉えられ、井戸の底に放りこまれてしまう。暗闇の中にあって、 正午近くに井戸の底まで達してくる太陽の光は、圧倒的な体験をもたらす。
それは光の洪水のようでした。私はそのむせかえるような明るさに、 息もできないほどでした。 暗闇と冷やかさはあっという間にどこかに追い払われ、 温かい陽光が私の裸の体を優しく包んでくれました。私の痛みさえもが、 その太陽の光に祝福されたように思えました。 [2]
しかし間宮中尉は、その光によってもたらされるはずの恩寵を永遠に失う。
私が井戸の中でいちばん苦しんだのは、 その光の中にある何かの姿を見極められない苦しみでした。 見るべきものを見ることができない飢えであり、 知るべきことを知ることのできない渇きでありました。 [3]
實松が隙間に見たのは何だろうか。そして彼はそこに見出された「何か」を 捉えることができるのだろうか。

今回の展覧会とほぼ同じ内容で、来年 1月にも都内での個展が予定されている。


Murata Ryoji - <ryoji@cc.rim.or.jp>
$Date: 1998/09/06$