『なぜ、これがアートなの?』

ニューヨーク近代美術館での教育プログラムが高く評価された Amelia Arenas の手になる企画展。豊田市美術館、川村記念美術館を経て水戸芸術館での開催となる 巡回展で、これにあわせて同名の書き下ろし著作も刊行されている ([1])。もとのタイトルは IS THIS ART? だったようだ。現代美術の入門者向けの啓蒙的な展覧会である。

しかし「なぜ、これがアートなの?」という問いに答えようとする展覧会ではなくて、 知識にとらわれずに作品そのものを観る機会を提供しようとしている。 ただ「アートとは何か?」といった疑似命題を充分誘発するものではあるとも思うし、 そうしたアートの定義からつねに逃げ出してきたのが現代美術だとも言えるので、 いささか危ういタイトルではあるだろう。それに

作者の側にとっては、自分のつくったものが「美術」との判定を得ることこそが、 重要になった。当の作品が「美術」であるかどうか、「美術」との判定を得られる ものであるかどうかが、作者にとって最大の関心事となった。その結果、「美術」と 命名されることをめぐる闘争、それこそが美術の <場> を 構成するようになった。
- 菅原 教夫『レディメイド ─ デュシャン覚書』 [2]

という面を抜きにしては不充分だとも思う。まあ、こんなことを言ってたら とてもじゃないが「初心者向け」には出来ないような気もするけれども。

こうした部分を除いても、なお問題は残る。僕は参加していないけれども、 想像するに Amelia Arenas のギャラリー・トークは素晴らしいのだろう。 が、名人芸的なそのトークは会期中たったの 1日だけなのである。 残りの日々は、せいぜい不慣れなボランティアによるトーク (僕が行った日は 参加者は 3人だった。館内放送くらい流せば良いのに) が 週末に行なわれるだけだ。それでもなお、作者もタイトルも年代も示さず、 ただ形式的な類似のみに基づく分類によって展示を構成することが、 どれほど有効であるのかは、疑問だと思わずにいられない。

こうした企画が、ともすれば容易に「感じるままでいいんだ」というメッセージに とられてしまうことに、もっと慎重であるべきなのかもしれない。 というのも、それは最も困惑させる (または退屈させる) 種類の メッセージでもあるのだから。 「自由に見る」ということは、決してそんなに簡単なことではない。

美術史を始めたころ、いい絵だと言われて、なぜどこがいいのかわからなかった。 感じるままでいいんだよと言われて、なおさら困った。
ことばも絵も、それを理解するには文法が必要だ。 でもその文法はいつも同じとは限らない。
いい作品はいいからいい、いつでもいいんだと言う人がいる。私もその神話は 持っていたいのだが、もしそれが正しいなら廃仏毀釈は起こらなかった。

- 佐藤 道信『<日本美術>誕生』 [3]

もちろん、何もかもを一つの企画で補うことは不可能だし、 この展覧会が全くダメだというつもりもない。 ただ少なくとも、常に有効な考え方ではないだろうと思うのだ。 美術教育 ─ とりわけ観賞教育 ─の何が問題なのか、 そしてどんな方法が可能なのかを考えるために、 今回の展覧会を一つの足掛かりにすればいいんじゃないだろうか。 そういう意味では、大事な試みだと思う。

ところで、こうした不満はあるものの 僕個人としてはそれなりに楽しめる展覧会だった。 これまで名前だけは知っていても見たことのない作品を、 この眼で実際に見る機会としては貴重だとも思う。それは僕にとっては例えば Ad Reinhart の "Abstract Painging" (1960-66) であったり、 Anish Kapoor の "Void #3" (1989) であったり、あるいは Joseph Beuys の "Jockey Cap" (1985) であったりする。 また Helen Chadwick の猛烈にスウィートな "Cacao" (1994) もそれなりに新鮮だった。
また気に入った作品に観客が投票するというのは、他の人々の評価も 知ることができるし、なかなか面白いやり方だと思う。

でも最後の展示室に、Sopie Calle の盲目の人々に「美」語らせた作品 "The Blind" (1992) があるのは (感動的な作品だけれど)、 結局「美」に収斂させようとしているみたいで、また納得がいかなかったりもする。


Review 1999[Index]
Murata Ryoji - <ryoji@cc.rim.or.jp>
$Date: 1999/01/18$