Open Studio "Tangible Bits" - 情報の感蝕 情報の気配

また会場が暗い。

"tangible" は「手でさわることのできる」という意味で、 この展覧会ではコンピュータのインターフェースを様々な実体のある物として 提案している。ビンの蓋を開けると音楽が鳴るとか。卓球台に水面のCGが映ってて、 ピンポン球がはねた所に波紋が広がるとか。LEGOに触る度にカウンターが動くとか。 「はぁ?」という感じ。正直言って、子供騙しに見えてしまった。

片方の丸棒を回すともう一方の丸棒にフォースフィードバックがかかる inTouch はすごく反応がいいな、とか、手で動かした時の 動きを記憶して、それをすっかり繰り返す curlybot はちょっと可愛い、 とかいうのはあったけれど。でもこれはアートの展覧会ではなかった。 別に「アートとは」とか言いだすつもりは全くないんだけれど。

未来のテクノロジーの姿を考えるということなら、まあこういうのもありだろう。 というか、基本的にはそんなに間違ったことをしてるとは思わない。 でも、ここに示されているのはインターフェース・デザインの、しかもかなり 抽象的なレヴェルのモデルだと思う。で、それを具体的な形に落とした所の センスがいまいちなのだ。「おおっ」と思わせるものがない。せいぜい「ふーん」。

つまり、やってることが全部了解可能な範囲に納まってるのだ。面白くない メディア・アートのほとんどと同様、基本的なカラクリが同じなのだ。 「CCD - コンピュータ - プロジェクタ」といういつもながらの三位一体。 それも「センサ - コンピュータ - ディスプレイ」のヴァリエーションなのだから、 ここにあるものはすべて同じ仕組と言ってもいい。技術的にはいろいろ難しい ことがあるんだろうけれど、その三位一体がある種の前提になってるのがすごく嫌だ。

もし無理にアートとして観ようとするにしても、具体的な形なり物体なりが いろんなものに置き換えができるように見えてしまって、つまらない。 技術なのだから、汎用性があったほうがいいのかもしれない。 でも美術としては、それらの技術と具体的な実現との間の結合度が あまりにも弱いのだ。要素がバラバラで、どこにも必然性が感じられない。 しかも「今あるものとは違ったもの」という感じもしない。 僕はそう感じさせてくれるものが観たいんだと思う。 まぁ、そんなのは古い美学にすぎないのかもしれないが。


Review 2000[Index]
Murata Ryoji - <ryoji@cc.rim.or.jp>
$Date: 2000/6/30$