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April 09, 2005
ネット上の日本の近代文学情報
先日買った『ユリイカ4月号 特集:ブログ作法』を読んでいたら、小谷野敦「ミクシィは『出会い系』か?」の中の一節に、
これは驚くべきことで、海外であれば、有名作家に関するウェブサイトは詳細なものがあるのが普通で、川端や芥川レヴェルの作家にそれがないというのは、日本の日本文学者の責任でもあろう。(p.121)
また、
(…)古典的な日本文学などというのは、ホットな話題にはなりにくいから、ネットは栄えない、かつ人文学そのものが衰退していて、インターネットの時代とか言われつつ、川端康成の公式ウェブサイトすらない (のは川端記念会の責任か?) のでは、悪循環に陥っている。頑張っているのは国文学研究資料館だが、要するに予算もなければ熱意のある人もいない、ということで、私が、どうもインターネット上の議論、というのに興味が湧かないのはそのせいかもしれない。(p.121)
とあって、「そうだよなー」とすんなり納得しかけたのですが、いやちょっとまて、小谷野氏自身も「日本文学者」の一人ではないのか?(この記事では「比較文学」ってなってるけど) と引っかかってしまいました。
みんなそうなんですよ。歴史系でもどっかで「ナントカ文書が電子化されて公開されましたね」と言う話にたいして「すごいですね。ところで、ホゲホゲ文書はいつになるんでしょうね?」という反応はあっても、「じゃあホゲホゲ文書は私がやりましょう」という人は全然いないのです。自分がやることだと思ってない。もし「日本の日本文学者の責任」が自分にもあると小谷野氏が感じているのならそれは立派なことで、たぶんおおかたの研究者は「自分以外の誰かの責任」 (たとえば川端記念会) としか感じておられないのではないだろーか。ここで言われているように予算もなければ熱意のある人もいなくて、その分野の研究者も「誰かやってくれれば使うけど、自分はやりたくない」という状態なのです。
もう一つ、これは多分に僕の妄想かもしれないのですが、人文系の、特に芸術系の研究者の中には、自分の研究は世の中の役に立たないと思ってる人が結構いて、しかもことによるとその「役に立たない」事をやるのが何か高尚なことだと思ってる様子さえ感じられることがあるのですよ。で、そうだとしたら研究によって何かしら世間に contribute するという意識自体がもうハナからあんまりないってことになるわけで。そのうえ人文系の人には「無ければ自分でつくる」という感覚を持ちあわせてる人も少なくて。
そういう人達が「ネット上での議論に興味が持てない」のは当然で、それは「その分野の人が貢献してないから」だよな、と。
でも学者と違うところで、青空文庫のような素晴しい活動もあるので、希望はあるんですけどね。
投稿者 ryoji : April 9, 2005 12:41 PM
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