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June 27, 2005
木下直之(編)『講座日本美術史 (6) 美術を支えるもの』
読了。
やばい日本美術史オモロイです。半ば義務感で始めたところもあるここのところの読書なのですが、いやーなかなかどうして。木下直之による序文の最初が、
美術史を学ぶ若い人たちが書いたものに、明治初年に美術は生まれた、それ以前に美術はなかったという表現を目にすることが多くなった。それは大いなる誤解だよと、すっきりしない気持がいつも残る。
という書きだしで、また、
「美術」はすでに終わったと考えるよりは、これまでに「美術」と呼んできたり、また呼んでこなかったりしたたくさんの物について考える方がよほど楽しいではないか。
と。で、この巻では、日本美術史における言説編成や制度性を具体的なモノの側からアプローチする論文が集められてます。しょっぱながもう、金のシャチホコという微妙すぎる物件をあつかった木下論文。五十殿利治は近代における美術とパフォーマンス性ということで、余興的なライブペインティングともいえる「席画」や東京美術学校の教員の制服の話などをあつかってます。高村光雲が天心に着させられて閉口したとか言ってておかしいです。平瀬礼太「戦争と美術コレクション」では、戦中には銅資源として、戦後は平和政策のため、それぞれ撤去または移動させられていった銅像、あるいは戦争画の戦後の扱いについて GHQ がどう対処していったかといった話題について詳述しています。あと印象に残ったのは武笠朗「平等院鳳凰堂阿弥陀如来像の近代」。これは平等院鳳凰堂は立派、仏師定朝は偉大、でもあの阿弥陀は…ちょっと微妙かも、みたいな評価の揺れうごきを丁寧に後づけていて興味深かったです。
どうも 1989年の北澤憲昭『眼の神殿』(美術出版社) (未読)が一つの画期と言われるようなのですが、90年代以降、日本美術史は結構変動の時期にあるようなんですね。『語る現在、語られる過去―日本の美術史学100年』も読んどくべきかしらん。
投稿者 ryoji : June 27, 2005 09:31 PM
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