別に美術作品を見る時に限った話ではないけれど、僕はときおり 自分が男であることにひどく困惑させられることがある。
ギャラリー小柳で見た Gillian Wearingと _『リアル/ライフ』展_で見た Georgina Starr と 三人で去年 _"English Rose"展_ でコラボレートした Tracey Emin。 _"English Rose"_ は見逃したので、今回初めて彼女の作品を見た。 三人の中ではたぶん、僕が一番苦手なタイプの作家。
_"Homage to Edvard Munch and All My Dead Children"_ は真っ青なカーテンの中でプロジェクションされるビデオ。海辺にうずくまる 女性から、水面へと画面が移されている間に悲痛な叫びが聞こえ、また女性が画面に 現れる。が、このとき女性の向きは変わっている。何があったのだろうか。
会場の中央には二つのインスタレーション。棺桶と、チェーンを巻き付けられた
スーツケースの _"Leavin Home - 1998, You destroyed something in me -
my body is still walking. But Living without heart is like breathing without
soul."_ 。それから散らかったベッドと天井から下げられた首吊り用のロープ
_"Better to have a straight spine than A broken neck."_。
さらに奥の壁には _"SobaseX"_ と
_"My cunt is wet with fear"_ という水色のネオン。
また、広い壁には _"61 Drawings 1995-1998"_ がところ狭しと
貼られている。
特にドローイングが生々しい。裸の女性、ペニス、傷、武器…。呪うようになぐり書き された夥しい言葉。これが困惑するのだ。どういうこと?
肉体的には、セックスの際の女は、他者に住みつかれた場所、文字通り占領された 領土そのものである ─ たとえ、いかなる抵抗や強制もなかったとしても。 また、たとえ、占領された人間が、いいわ、どうぞ、いいわ、早く、いいわ、もっと と言ったとしても、それは占領なのである。本来越えられ得ないはずの体の中に 他者が入り込む時点で、そこに一線を画すことは、一線を画さないこととは違う。 また、体の中を占領されることは、占領されないこととは違うのである。とか?
- Andrea Dworkin, "Intercourse," 1987[1]
よくわからない。僕がこの作品を受け入れられないのは、あまりにも直截で
表現主義的だからだと思う。でも、それは欺瞞なのでは? という思いを
どうやって払拭すれば良いのだろうか。
生々しい現実から眼をそむけたいだけなのでは? という考えを否定する
有力な根拠は、見つからない。
こうして僕の思考は止まってしまう。この停止が、僕をひどく困惑させる。
僕はうろたえて、憂鬱な気分になる。
会場においてあった雑誌の中で彼女は、自分は今とても幸せだ、と言っていた。