『「作品」を読む ― 足で読む、耳で読む、画面で読む』

「現代美術は難しいとよく言われますが」的展覧会の一つ。 展示そのものは、収蔵作品をテーマも脈絡もなく並べているのだけれど、 それを「街角キュレーター」(論文を募集して選出された美術愛好家)の各自の テーマによるギャラリーツアーや、「ドラマライヴ」によって観せていく。 展示が平板であるだけ、そういう「視点」の大事さが強調されていると思う。

残念ながら「街角キュレーター」によるギャラリーツアーも、学芸員による ギャラリートークも参加できなかったのだが、「ドラマライヴ」だけは観ることが 出来た。これは、学芸員と「街角キュレーター」によるギャラリーツアー、 という設定で、ちょっとした劇を演じながら作品を紹介したり、解釈したりするもの。 ややこしいが、これを実演するのは学芸員役や街角キュレーター役の役者である。 展覧会タイトルの中の「耳で読む」部分だ。ちなみに「足」がギャラリーツアーで、 「画面」はパソコンの中の感想ノートのようなもの。よく見てないけど、 何故パソコンなのかは僕には不明。

さてドラマライヴだが、ポスターなどにある、「怒れる女」「泣き男」「笑い女」 が会場を疾走する、という文句の通り3人で演じられるものだった。 学芸員役がアートの正統的な消費者/解釈者である「怒れる女」、 自己流の解釈を披露する狂言回し的な「当館芸能部員」役が「笑い女」、そして その2人の間で困惑気味の「一般の方々」を表象する街角キュレーター役が 「泣き男」というわけだ。まぁ、いささかありきたりな類型化ではある。 当然、「笑い女」の自己流の解釈がここでは最も理想的なものとして位置づけられ、 「怒れる女」はからかいの対象になる。でも主観的な見方をそれほど称揚しなければ ならない理由はどこにあるんだろう、なんて思ってしまった。 『なぜ、これがアートなの?』を観たとき にも感じたことだけれど、アートは知識に捕われず自分の感覚だけを根拠にして 観るべきだ、というような、いわばより上位の正統性のイデオロギーを 再生産してるとも言えると思うのだが。 まぁ、だからと言って他にどうすればいいのかは僕にはわからない。

展示されていた作品は戦後の絵画がほとんどだったし、あまり好みの作品があった わけではないので、展示そのものはあまり楽しめなかった。ただ、結構人が 集まってライヴを熱心に観ていたのが印象に残っている。


Review 2000[Index]
Murata Ryoji - <ryoji@cc.rim.or.jp>
$Date: 2000/7/12$