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June 06, 2005
佐藤康宏(編)『講座日本美術史 (1) 物から言葉へ』
日本美術史勉強中、ということで『岩波 日本美術の流れ』を読んでたりしたんですが、一応第2巻以外はなんとか入手して読了。どの巻もかなり楽しく読めたので、入手困難なのはとても残念です。特に7巻目の辻惟雄『日本美術の見方』には妙チキリンな物件が数多く出ていて(もちろんそれだけじゃないですが)、楽しめました。
で、もうちょっと突込んだ、というか美術史学という分野のことをもうちょっと知りたい、ということで、東京大学出版会から出てる「講座 日本美術史」シリーズの1冊目を買ってみました。まだ途中までですが、これも非常に面白いです。「物から言葉へ」というタイトルのついたこの巻では、物体としての美術作品から言葉による学問へ、というのが焦点で、作品のディスクリプション、科学調査、作者の比定などといった美術史学の作法について論じる論文が10本収められています。僕のように美術史は大学の概論でちょっと習ったきり、という程度だと、どうしても「物体としての作品」という見方が希薄になっているように思います。というのは、おおざっぱに美術史が語られる時に中心になるのは、表象としての図像、あるいは様式史のようなところで、たとえばある絵が屏風に描かれたのか襖に描かれたのか、なんてことはあまり気にされなくなってしまう傾向があるような気がするのです。
というわけで、美術史家がモノと対峙して何かを考える様子が伺えます。堅実で気持いい。(こないだ読んだ別の一般向けの日本美術の本が、ちょっと事実と意見がまともに分離されてないような、根拠が充分に示されないまま「間違いないのである」とか言いきってしまうような本だったので、余計こういう本を読むと安心してしまいます。)
これまで読んだところで特に興味深かったのは、島尾新「絵画史研究と光学的手法 ― 『源氏物語絵巻』の調査から」で、これは蛍光X線分析とかその手の光学的手法による絵巻の調査についての論文なのですが、その中に作品を語ることについての筆者の考えを述べてる箇所があって、まず、
しかし、「イノセント・アイ」の幻想はとっくに崩れ去っているし、ニュー・アート・ヒストリーとかカルチュラル・スタディーズとか様々に名付けられた研究動向は、私たちの作品に向けるまなざしが人間一般に還元できるものではないことを明らかにしている。(pp.88-89)
として、従来の作品研究に「作品の正しい姿は、それが生み出されたときのものであり、私たちが見たいのもそれである」という願望があることを指摘し、それ自体が間違いなのではないとしながらも、結果として「基本的な事象空間が現在と作品の生成時の二つしかなく、そのために両者の中間で作品が身に纏ってきたものが『剥ぎ取られて』しまうこと」(p.89)が問題だとしています。
その中で「作品」についての「近代の美術史学」成立以前の語り、例えば「作品」に付属する狩野派や古筆家の極や、江戸時代の随筆に記された遥かなる過去の「作品」についての語りなどは、基本的に当てにならないものとの懐疑のまなざしに晒され、「近代の学」としての美術史の眼鏡にかなわないものは容赦なく切り捨てられてしまうことになる。幕末には数千はあったはずの雪舟筆とされる絵のほとんどが、社会の表層から姿を消してしまったのは、そのような「剥ぎ取り」の結果である。現在の絵画の修復が原則的にオリジナルな部分以外を、物理的に剥ぎ取ってしまうのも象徴的だ。(pp.89-90)
このあと筆者は生成時から連続して様々な出来事を経て現在に至っている歴史的に連続した存在として作品を捉えることを「生命誌モデル」と呼んで提唱しています。このあたり、まだ積ん読状態の『うごくモノ ― 「美術品」の価値形成とは何か』にも繋ってきそうなので、そっちも読まないと…。
投稿者 ryoji : June 6, 2005 01:10 AM
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