May 11, 2006
ジョン オルコック『社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか』
ジョン オルコック『社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか』(長谷川真理子訳、新曜社、2004/01) を読了。
生物の様々な社会的行動を進化的に説明しようとしてきた社会生物学が、誤った非難や中傷をされながらも挙げつづけてきた様々な成果を紹介しつつ、そうした批判のどこが間違っているのかを丁寧に解きほぐしてくれます。社会生物学が扱ってきたいろいろなテーマそのものも面白いし、そういう考え方 (生物の社会的行動がどのように繁殖戦略に役立ってきて、その結果どのような行動様式や文化が発達したり、副作用が現れたりするのか、といった) も大変興味深いです。また特にこれが人間に適用されて、不倫の適応論的分析とかすると、社会科学者やフェミニストといった人達がどれほどあっさりと「自然主義の誤謬」に陥ってしまうかというエピソードも面白い。
多くの人は、セーシェルヨシキリのヘルパーやカワトンボの精子間競争を進化的に分析しても、とくに何の反対もしない (と言うか、悲しいことに、こんなことにはあまり興味がない)。しかし、これが進化と人間の話になったとたん、いとも簡単に怒声が飛び交うことになる。(p.195)
訳者の長谷川真理子については、長谷川真理子『オスの戦略メスの戦略』 (日本放送協会、1999年) をとても楽しく読んで以来、いくつか著作を読んでます。すばらしい書き手です。あと関連するところで面白かったのは、スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か』 (NHK出版、2004年) でしょうか。
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February 08, 2006
宇佐美久美子『アフリカ史の意味』
急にアフリカが気になりだして (なんでだろ?) 宇佐美久美子『アフリカ史の意味』 (世界史リブレット14、山川出版社、1996) を読んでみました。講談社現代新書の『新書アフリカ史』という選択肢ももちろんあったのですが、初心者なのでひとまず薄いものがよかろう、ということで。
で、やはりアフリカの歴史って全然知らなかったので、興味深く読めました。サハラ以南のアフリカの歴史が植民地化によって失われてきたこと、文字資料が少なく再現が難しいことが多いこと、それでもアラブなどでいろいろな記録類があること…。それから、「奴隷制」「王国」「帝国」という用語が使われていても、アフリカについてそう呼ばれているものの実体は、例えばヨーロッパで「奴隷制」と言うようなものとは少しずつ違っているというのも、指摘されないと気づきにくいところでした。勉強になりました。
そんなわけで、勉強ついでに Wikipedia のアフリカ美術の項を英語版からざっくり翻訳してみたりして。あー、しゃかしゃかっとやったので直したいトコが一杯あるけどまぁそのうちに。
それにしても、近所の書店とかだとアフリカ関係の本なんてぜーんぜん無いですね。うーむ。
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January 18, 2006
本田由紀, 内藤朝雄, 後藤和智『「ニート」って言うな!』
本田由紀, 内藤朝雄, 後藤和智『「ニート」って言うな!』 (光文社新書 237, 2006年) を読んでいます。先じゃなく今読むのがいいと思えたので。そして最近著者の一人の本田由紀のもじれの日々も読みはじめたので。
つまり、もし若年層失業に焦点を当てていれば、労働需給の客観的構造自体が注目され、労働需要を刺激し回復するための方策として何が可能なのか、という方向で取り組みが勧められていたはずです。それが今や、失業者を定義上除外している日本版の「ニート」ばかりが強調され、「働こうともしていないんだから、本人が悪いんだろ」というような言われ方をすることによって、労働需要側の問題ではなく、労働供給側である若者の自己責任にすべてが還元されるような風潮が支配的になっているのです。(pp52-53)
非希望型の無業者(「ニート」という言葉で想像されているだろう層)が実はほとんど増えていないのに加えて、「希望型」の無業者、つまり働く気はあるけれど求職活動をしていない層の「求職活動していない理由」として「病気・けが」が増えているのが意外でした(p35の図2-1-2)。なんで増えるんだ…労働条件が過酷になってるの? フリーターで病気すると離職せざるを得ないから? ともかく、「働く気があるけど求職していない」とだけニート論議の中で聞くと、「やる気はあるけど…って言うけど、口だけなんじゃないの?」みたいな印象を持ちそうになってしまうので(少なくとも自分はそういう傾向があります)、こういうデータは重要と思います。この辺もうちょっと詳しく知りたいですが。
ところで wakamononingenryoku.jp ってすごいドメイン名。
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January 08, 2006
最上敏樹『人道的介入』
以前に一度読んではいたのですが、帰省の際に新幹線の中で最上敏樹『人道的介入』を読みかえしたのでした。
ソマリア、ルワンダ、ユーゴなどの「介入」の事例を辿りながら、国際法の見地から「人道的介入」が合法となる条件や、武力行使を伴わない介入のあり方などを模索しています。NATOによるユーゴ空爆の事例は人道的介入としては問題が多く、モデルケースとは言えないため、あれをモデルにしてもあまり意味がないといいます。また後半では国境なき医師団を例に挙げながら武力を伴わない市民的介入や、こうした市民的介入の安全確保のための(かつそのためだけの)武力行使の可能性について論じています。基本的には、非人道的状況に対して介入が必要なことはありうるが、犠牲者の人権を保護し、迫害される人々へのアクセスを確保する活動が中心になるべきで、武力の行使は最小限でなければならず、まして加害者への懲罰は最も慎重にならなければならない、と。
大変示唆に富む内容でした。一度読んでいたのに、1971年に行なわれたパキスタンによるベンガル人虐殺のことなんて完全に忘れてましたよ…。
ところで、NATOによるユーゴ空爆について、スーザン・ソンタグがそれを支持するような発言をしていな、と思い出したので、『この時代に想う テロへの眼差し』(NTT出版、2002年)もぱらぱらと見てみると、
そうです。あまりにも多くの残虐行為を承認してきた、バルカンの戦争実行者、独裁者の動きを封じ、できれば倒す試みをするという、あの遅すぎた決定を私は支持しました。NATOが戦争をいかに遂行したか。自分たちの側の軍隊をリスクにさらさないで死傷者や損害を制限し、地上の民間の損害を最大限引き起こす、そのやり方は当時もいまも私は支持していません。(pp139-140)
何もしなければ虐殺が続く、だから軍事介入は正当だ、と。しかし引用の後半「そのやり方」の部分こそもっと焦点があてられるべきだと感じました。あの空爆を支持する/支持しない、ではなくて、「どのように」被害者を支援するのかという議論に集中するべきだったはずでしょう。そしてベオグラードを爆撃するという「懲罰」よりもコソボにいる被害者を保護するほうが優先されなければならないならば、「何もしない」かわりになしうることがあのような空爆だけだったはずはないと思わずにおれません。もちろん僕は「どんな戦争地帯にも一度も近づいたことがなく、戦闘に与したり、爆撃のもとで生活したりするとはどんなことかこれっぽっちの考えもない」(p119)ので、ソンタグのような人からすれば何も言う資格などない、ということになるかもしれませんけど。でも「見たことのないものについては、どんな立場もとるべきでない」というのは間違ってると思いますけどね。いやそれはいいんだけど、時間をおいてまたああいうことについて考えてみるというのも、必要かなと結構本気で思いました。憲法改正論議とかの中でも、80、90年代あたりの近い過去については言及されることが少なすぎるように思いますし。
そんなわけで(?)、今同じ著者による『国連とアメリカ』を読んでます。こちらについてはまたいずれ。
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南直人『ヨーロッパの舌はどう変わったか』
TFJ さんにも勧められた、南直人『ヨーロッパの舌はどう変わったか』(講談社選書メチエ 123, 1998) を読んでみました。
面白い。一般的に「洋食」あるいは欧米風の食事としてイメージされているものが、欧米において伝統的だったものというより実際には19世紀末から20世紀初頭にようやく定着してきた近代的な食であって、その登場には他の様々な近代化の過程が密接に絡まりあっていることを示しています。たとえば大航海時代以来の交通手段の発達、および新世界からの新しい食材の流入、植民地とプランテーション農業、人口の変動、産業革命以後の生活スタイルの変化、加工技術の高度化、健康というイデオロギーの登場…などなど。いまの日本では「欧米風の食事に憧れる」というようなことはほとんどないでしょうけれど、ちょっと前までのヨーロッパの普通の民衆がいかに粗末な食事をしていたか、近代がいかに人間生活を豊かにし、どんな新しい問題が生まれてきたかについて、いろいろ思いをめぐらせながら読みました。うむ。昔の人が何食ってたかを知るってのは大事だと思います。いまだに「日本人は農耕民族、欧米人は狩猟民族」みたいなことを当たり前のように言う人いるからなー。あれってどこから出てきた話なんだろ? 誰か調べてないのかなー。
話がずれました。いろいろと発見があったのですが、特に驚いたのは、中世末期は結構栄養状態が良かったらしいこと、そしてその時期にはかなり肉食いまくりだったっぽいということ。この時期はペストによる人口減少で労働力が不足して都市労働者の賃金が上がり、農業も穀物栽培より牧畜のほうが(手間がかからないので)有利となって、結果たっぷり肉が食えるという状況だったようです。近代にかけて次第に人口が増えていくと肉の消費量は減少して、19世紀末から20世紀初頭にかけて、産業革命による購買力の向上や肉の流通や保存の改善を背景にしつつ、肉食が「復活」するという構図なんですね。僕はもっと直線的に肉の消費量が増えてきたのだろうとばっかり思っていたので、これには驚きました。
他にも食事のスタイルやマナーの変化、加工食品の登場など面白い話題が盛り沢山でした。こうなってくると、近代以前の日本の食事はどんなだったのかとか、近代化は中華料理にどんな影響を与えたのか(トウガラシが入る前の四川料理とか)とか知りたいですねー。とくに中華料理はすぐ4千年とか3千年とかいう言葉で修飾されるのを、んなわけねーだろと常々感じてるので、興味ありますー。
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December 11, 2005
エリック・フリーマン他著『Head Firstデザインパターン―頭とからだで覚えるデザインパターンの基本』
デザインパターンの勉強をもうちょっとやっといたほうがいいかな、と思っていたところに、邦訳が出たので購入。
楽しく読めます。デザインパターンについては、以前にも本を読んだりしたことはあったのですが、血肉になってないんですよね。本で読んで理解できても、また使う時になったらちゃんと読みなおしてコードを書いてみよー、なんて適当な態度だったんです。でも結局いつがその「使う時」なのかわかってないじゃん、ということに気づきまして(遅いよ)、改めて。勉強するなら楽しい本がいいよね、ということで。この本の良いところは、わかりやすいんだけど浅くはない、というところ。それに読んでる自分の思考の流れを適度に先読みされてるような感覚があって、考えながら読めます。
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November 23, 2005
珍ドイツ紀行
Michaela Vieser. Reto Wettach., "Übersehene Sehenswürdigkeiten. Deutsche Orte. (Overlooked Sights. German Places.)," (ic! berlin, 2004, ISBN3980975800) という本をお土産に頂きました。かなーり変な本で、楽しいです。英語でも書かれるのでドイツ語わからなくても読めるし。ふと見ると Preface を都築響一が書いてて、うわあっ! ってなりました。
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November 10, 2005
島本浣『美術カタログ論』読了
少し前に買った、島本浣『美術カタログ論―記録・記憶・言説』 (三元社、2005年、ISBN4-88303-160-8) を読了しました。面白かったー。競売カタログ、展覧会カタログ、美術館カタログ、カタログ・レゾネのそれぞれについて、歴史的な背景とともに概観できる前半もとても勉強になりましたし、カタログと美術史、カタログとタイトルといったテーマによる後半も、非常に興味深く読みました。
読み始めたときには、どちらかというとカタログに表されたディスクリプションの変遷みたいなものがわかるといいな、というつもりだったのですが、そしてその期待は充分満たされたのですが、それ以上に、美術史の中におけるカタログという場のもつ問題の広がりに、目からウロコの落ちる思いでした。特に、初期には展示空間の表象という側面の強かったカタログが、分類や年代史的配列によって現実の空間から離れていき、さらに美術史の言説を支えるデータベースとしてのインデックス的空間へと変容していく、という見取り図には、考えさせられました。
そもそも分類と記述の形式の内に美術史を表象していたカタログが、外の美術史の言説を取り込むことでカタログの美術書化が促進されたといっても、その美術史そのものが美術の歴史を分類、整理する一種のカタログ的思考の上に成立してきたのではないかという問題である。…(中略)美術カタログの誕生と発展自体が、美術作品の歴史化=美術史化を促進してきたものでもあったということだ。(p.318)
僕のやっている博物館・美術館の資料情報の研究というのは、こうしたカタログ類の末裔でもあるんですよね。それが美術史とどのような関係におかれていくのか、なんてことは、まだまだ全然見えてはきませんが…。もちろん、自分の仕事が美術史研究に何のインパクトももたらさなかったら、そんなの意味ないよな、とは思ってますけど。うーむ、まあそんなわけで、本当に示唆されるところの多い書物でした。
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October 03, 2005
岡野玲子, 夢枕獏『陰陽師』
なんだかまとめて読んでる最中です。
原作は読んでないですが、設定とか背景が絞りこまれてるので、ストーリーにしまりがありますね。それになにより、漫画的表現がとても良い感じです。うまいなぁ。第一話で道真公の眷属たちが垂直にのぼっていくのを見て、これはキタ、とおもいました。
勢いあまって映画『陰陽師II』のビデオもかりてしまいました。映画版の前作は劇場で観て「あーもったいない」という感想だったのですが、今回も…。晴明と博雅のキャスティングは妙に漫画のイメージに近い気がしますが。それにしても設定が適当すぎて腰が抜けそうでした。あの「出雲村」は京のすぐ近所なんでしょうか、とか…(以下多数)。
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September 23, 2005
島本浣『美術カタログ論―記録・記憶・言説』
新聞の書評欄で見かけて気になってた島本浣『美術カタログ論―記録・記憶・言説』 (三元社、2005) を買ってみました。
17世紀から20世紀初頭までのフランスにおける美術カタログを調査・研究し、その歴史的変遷と美術のシステムの中で果してきた役割、美術品の分類や記述の問題、さらにカタログが生みだしてきた言説を分析するというものです。ちょっとあまり見ない研究で、特に美術品についての即物的な記述のありかたにとても関心をもっている僕としては、大変興味をひかれたのでした。対象となる時代と地域が区切られていますが、ここで扱われる「カタログ」には競売カタログ、展覧会カタログ、美術館カタログ(収蔵品目録かな?)、カタログ・レゾネと美術に関係するカタログ全体に目がむけられています。
で、本論はまだ読みはじめたばかりですが、プロローグのしょっぱな、
美術史や美術批評史を研究対象としていて困ることのひとつは、カタログ類の収納の問題である。…(中略)…このボリューム・アップしていくカタログを個人的にコレクションしていくことが、並みの家に住んでいる者には少なからず恐怖をもたらすようになってきている。
…思わず共感してしまいました。いや、僕の場合はまだそんなに多くはないし(美術史研究者でもないですしね)、恐怖を覚えるというのにはほど遠いのですが、確かにいずれ問題になるのは確実かと…。
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July 11, 2005
東京文化財研究所(編)『うごくモノ ― 「美術」以前の価値とは何か』
ようやく読了。
2002年に行なわれたシンポジウムの報告書です。「モノの年輪」「モノの旅行記」「モノと人の力学」の3つのセッションに分けてあり、それぞれ時間の経過、空間的な移動、モノの起かれたコンテキストの変化を軸にして、様々な論考が展開しています。シンポジウムのページにも各プログラムの概要が載ってるますが、どれも非常に面白いです。また従来美術史が真正面からとりあげてこなかったようなモノがかなり出てきている点でも興味深いのですが、これも美術史の変化の一つの表れなのでしょうか。
特に印象に残ったのは、江戸時代に石をコレクションしてた人達についての「神代石の収集」、跋文が周到に用意された様子を分析した「題跋の追加とその価値」、有名なピカソの作品を扱った「ゲルニカのオデュッセイア」、実在した画家、しなかった画家と彼らへの評価について語る「作品のアイデンティティと画家の実存」、警鐘を鳴らす「とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化」、赤瀬川の千円札事件を扱った「「日常性への下降」から「芸術性への上昇」へ」といったあたり。
また別の機会に詳述しようと思っていますが、美術作品の情報の見方として、その製作から現在の状態にいたるまで、または作品が消失するまでの時間全体を、一つのライフサイクルにおいて捉えるという考え方がいいのではないかな、というようなことを、ここのところずっと考えてるんです。そういう意味でもタイムリーに読めて、かなり示唆的でした。うむ。
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June 27, 2005
木下直之(編)『講座日本美術史 (6) 美術を支えるもの』
読了。
やばい日本美術史オモロイです。半ば義務感で始めたところもあるここのところの読書なのですが、いやーなかなかどうして。木下直之による序文の最初が、
美術史を学ぶ若い人たちが書いたものに、明治初年に美術は生まれた、それ以前に美術はなかったという表現を目にすることが多くなった。それは大いなる誤解だよと、すっきりしない気持がいつも残る。
という書きだしで、また、
「美術」はすでに終わったと考えるよりは、これまでに「美術」と呼んできたり、また呼んでこなかったりしたたくさんの物について考える方がよほど楽しいではないか。
と。で、この巻では、日本美術史における言説編成や制度性を具体的なモノの側からアプローチする論文が集められてます。しょっぱながもう、金のシャチホコという微妙すぎる物件をあつかった木下論文。五十殿利治は近代における美術とパフォーマンス性ということで、余興的なライブペインティングともいえる「席画」や東京美術学校の教員の制服の話などをあつかってます。高村光雲が天心に着させられて閉口したとか言ってておかしいです。平瀬礼太「戦争と美術コレクション」では、戦中には銅資源として、戦後は平和政策のため、それぞれ撤去または移動させられていった銅像、あるいは戦争画の戦後の扱いについて GHQ がどう対処していったかといった話題について詳述しています。あと印象に残ったのは武笠朗「平等院鳳凰堂阿弥陀如来像の近代」。これは平等院鳳凰堂は立派、仏師定朝は偉大、でもあの阿弥陀は…ちょっと微妙かも、みたいな評価の揺れうごきを丁寧に後づけていて興味深かったです。
どうも 1989年の北澤憲昭『眼の神殿』(美術出版社) (未読)が一つの画期と言われるようなのですが、90年代以降、日本美術史は結構変動の時期にあるようなんですね。『語る現在、語られる過去―日本の美術史学100年』も読んどくべきかしらん。
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June 25, 2005
Tom Stafford & Matt Webb "Mind Hacks"
あーあ、買っちゃった。
あーあ、っていうのは、自分が必要としてるものとはたぶん違うんだろうなーという。いや、読みはじめたばかりですが、内容は結構、面白いです。Hack というより面白科学って感じですが。認知心理学とかの方面の知見やら、自分でも試せる面白ネタが集められてます。あーでも、脳とか知覚を相手に、入力いじってみることで何が起きてるのか見てみよう、という意味では Hack っぽいかも。マジで頭使ってる時は脈拍あがるんだよ、さあ測ってみよう! みたいな。 "Neuropsychology, the 10% Myth, and Why You Use All of Your Brain" という Hack (やっぱ違和感…) の「人間は脳の潜在能力の10% しか使ってない」なんて話は根拠ないっすよ、みたいな啓蒙的な内容もあり。僕はこういうの好きです。あと錯視ネタとかはわりによく知られたものが出てるな、という印象。でも後半の Reasoning とか Remembering とかあたりはもうちょっと応用的な雰囲気なので期待。
Paying Attention (or Not) to the Flickr Daily Zeitgeist (by Tom Stafford, Matt Webb) みたいな記事を読んで、ユーザーインタフェースと知覚みたいな話がもっとダイレクトに沢山あるのかとなんとなく思ってたんですが、そうではないみたい。でもまあいいです。
しかしこれ、タイトルがアレゲすぎて、電車の中で読むのにちょっと躊躇しちゃいます。
あと購入検討中の本は Designing Visual Interfaces: Communication Oriented Techniques。忘れそうなのでメモ。
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June 06, 2005
佐藤康宏(編)『講座日本美術史 (1) 物から言葉へ』
日本美術史勉強中、ということで『岩波 日本美術の流れ』を読んでたりしたんですが、一応第2巻以外はなんとか入手して読了。どの巻もかなり楽しく読めたので、入手困難なのはとても残念です。特に7巻目の辻惟雄『日本美術の見方』には妙チキリンな物件が数多く出ていて(もちろんそれだけじゃないですが)、楽しめました。
で、もうちょっと突込んだ、というか美術史学という分野のことをもうちょっと知りたい、ということで、東京大学出版会から出てる「講座 日本美術史」シリーズの1冊目を買ってみました。まだ途中までですが、これも非常に面白いです。「物から言葉へ」というタイトルのついたこの巻では、物体としての美術作品から言葉による学問へ、というのが焦点で、作品のディスクリプション、科学調査、作者の比定などといった美術史学の作法について論じる論文が10本収められています。僕のように美術史は大学の概論でちょっと習ったきり、という程度だと、どうしても「物体としての作品」という見方が希薄になっているように思います。というのは、おおざっぱに美術史が語られる時に中心になるのは、表象としての図像、あるいは様式史のようなところで、たとえばある絵が屏風に描かれたのか襖に描かれたのか、なんてことはあまり気にされなくなってしまう傾向があるような気がするのです。
というわけで、美術史家がモノと対峙して何かを考える様子が伺えます。堅実で気持いい。(こないだ読んだ別の一般向けの日本美術の本が、ちょっと事実と意見がまともに分離されてないような、根拠が充分に示されないまま「間違いないのである」とか言いきってしまうような本だったので、余計こういう本を読むと安心してしまいます。)
これまで読んだところで特に興味深かったのは、島尾新「絵画史研究と光学的手法 ― 『源氏物語絵巻』の調査から」で、これは蛍光X線分析とかその手の光学的手法による絵巻の調査についての論文なのですが、その中に作品を語ることについての筆者の考えを述べてる箇所があって、まず、
しかし、「イノセント・アイ」の幻想はとっくに崩れ去っているし、ニュー・アート・ヒストリーとかカルチュラル・スタディーズとか様々に名付けられた研究動向は、私たちの作品に向けるまなざしが人間一般に還元できるものではないことを明らかにしている。(pp.88-89)
として、従来の作品研究に「作品の正しい姿は、それが生み出されたときのものであり、私たちが見たいのもそれである」という願望があることを指摘し、それ自体が間違いなのではないとしながらも、結果として「基本的な事象空間が現在と作品の生成時の二つしかなく、そのために両者の中間で作品が身に纏ってきたものが『剥ぎ取られて』しまうこと」(p.89)が問題だとしています。
その中で「作品」についての「近代の美術史学」成立以前の語り、例えば「作品」に付属する狩野派や古筆家の極や、江戸時代の随筆に記された遥かなる過去の「作品」についての語りなどは、基本的に当てにならないものとの懐疑のまなざしに晒され、「近代の学」としての美術史の眼鏡にかなわないものは容赦なく切り捨てられてしまうことになる。幕末には数千はあったはずの雪舟筆とされる絵のほとんどが、社会の表層から姿を消してしまったのは、そのような「剥ぎ取り」の結果である。現在の絵画の修復が原則的にオリジナルな部分以外を、物理的に剥ぎ取ってしまうのも象徴的だ。(pp.89-90)
このあと筆者は生成時から連続して様々な出来事を経て現在に至っている歴史的に連続した存在として作品を捉えることを「生命誌モデル」と呼んで提唱しています。このあたり、まだ積ん読状態の『うごくモノ ― 「美術品」の価値形成とは何か』にも繋ってきそうなので、そっちも読まないと…。
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April 25, 2005
『岩波 日本美術の流れ』
『岩波 日本美術の流れ』のシリーズのうち、千野香織『10-13世紀の美術 ―王朝美の世界』を読んでます。良い本です。読みやすいし、よく参照される主要な作品については丁寧な解説があるし、小さめではあるけれど一応一通り図版がついてるし。分量も手頃だし。最低限の背景知識についても説明があるのもありがたいです。だから他の巻も欲しいのだけど、どうも一部は入手困難っぽい。出たの10年ちょっと前なんですが。ああぁ。でも中古とかでも探して買おうかな。安いし。
しかしこの著者の文章が読みやすいからって他の巻も全部読みやすいとは限らないからなー。立ち読みしてから買いたい…。
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April 18, 2005
『グリーンバーグ批評選集』ほか
クレメント・グリーンバーグ『グリーンバーグ批評選集』(藤枝晃雄 編訳, 勁草書房) を買ってきました。もう出たとき買っとかないと! という感じで。いやー、知らなかったんですが、ロザリンド・クラウス『オリジナリティと反復』の邦訳も絶版なんですね。買っといてよかった(だからそうじゃないでしょ)。ちょっとネットで見てみて、目次とか出てなさそうなので、巻末の初出一覧から、収録論文のタイトルを。
- Avant-Garde and Kitsch, 1939
- Towards a Newer Laocoon, 1940
- Beginnings of Modernism, 1983
- Modernist Painting, 1960
- The Crisis of the Easel Picture, 1948
- Collage, 1958
- The New Sculpture, 1949
- "American-Type" Painting, 1955
- After Abstract Expressionism, 1962
- Post-Painterly Abstraction, 1964
- Necessity of "Formalism", 1971
- Manet at Philadelphia, 1967
- Cezanne, 1951
- Picasso at Seventy-five, 1957
- Influence of Matisse, 1973
で、これ目あてに本屋に行ったのですが、それより目下勉強しなくちゃならないのは日本美術だったりするので、そっち方面の本も買ってみました。正直日本美術史に関しては素人同然なので…(汗)。
谷村晃・原田平作・神林恒道 編『芸術学フォーラム5 日本の美術』勁草書房、1994、ISBN 4-326-84840-5
美術史家がどんなこと考えてるのかなー、と。
『うごくモノ 「美術品」の価値形成とは何か』 東京文化財研究所 編、2004、 ISBN4-582-20635-2
こちらは日本美術に限ってるわけじゃないですが、モノの移動と価値形成に関する研究集会の報告書。やけに面白そう。。
日高薫『日本美術のことば案内』小学館、2002、ISBN4096815411
…すみません。いやちょっと、本当に恥ずかしいんですけど、こういうのが必要なくらい知らないんです。ていうか、ぶっちゃけ字さえ読めないことが多いんですよ…。
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March 23, 2005
テリー・イーグルトン『アフター・セオリー』
今日書店で買いました。
まだちょっとしか読んでませんが、『ポストモダニズムの幻想』の続編的な感じがしますね。しかしイーグルトンの本を読む自分は、文化理論に関心があるのか悪口雑言が読みたいだけなのかわかりません。んー、両方か(希望)。
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February 23, 2005
細野不二彦『ギャラリーフェイク』
大人買いして読んでます。
よく調べてありますよねー、これ。キチっと取材してるって感じです。ちょっと大げさだな、と思うところも時々ありますが、それも全然許容範囲。美術業界の描写も結構リアリティあるし(自分の知ってる範囲では)。しかしアメリカ帰り28才女性しかも美人の三田村館長というキャラはさすがに無理があるような(もしもこんな人が現実いたら、ものすごい苦労するに違いないと思う)。漫画だからいいけど。あとあれ、国宝Gメンの知念さん、イイです。気になるのはギャラリーフェイクが埠頭らしき所にあるところ。さぞ潮風対策が大変でしょうね(ニセモノばかりだから良いのか?)…。
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February 02, 2005
溝口理一郎『オントロジー工学』
ドメイン・オントロジーの勉強とかしてるので、ズバリなタイトルの本を買ってみた。前半は開発方法論やアプリケーションの話が中心で、実用的にふむふむ読んだのですが、後半が困ってしまいました。オントロジー基礎論ということで、基礎的な問題を扱っていく、というのだけれど、「表現のオントロジー」として創作(音楽や美術や文学)の分析をしはじめるところで、つまずいてしまいました。つまずいた、というより、ついていけなくなった、というか。オントロジー開発ってオブジェクト指向分析によく似てるし、それって記号論的な概念分析にもそっくりだと僕は思ってるんですね。例えばこの本で「楽曲のインスタンスは楽譜か演奏か」みたいな問いがあるんです。で、僕はだいぶ前に増田さんの「ポピュラー音楽における「作品」とは何か」を読んでオブジェクト指向っぽいなーと思ったことがあるんですが、これを荒っぽくしたような議論が展開されるんですよ。なんか記号論の復習してるみたいでまわりくどーい、という感想と同時に、こういう議論をしていて著者が期待する(しているであろう、かな?)ような「専門家によるごく少数のトップレベル・オントロジー」にはとうてい辿りつかないんじゃないかな、と。いや、直感的にそう思うだけですが。だって作品概念の分析自体、こうして美学の研究の対象にもなるわけじゃないですか。そんでこの手の研究によって、作品なら作品の概念規定がどっかに収斂していくとは思えないんですよね。なんとなくですけどね、あくまで。どうも僕が構造主義の子供(謎)だからか現代美術なんて変な分野に関ってたからかはわかりませんが、不用意に「本質的」とか書いてあるとそれだけで違和感を感じてしまうし…。うーむ。
文学についても例えば「源氏物語は何の上に書かれたかということとは独立した概念であり」みたいなことは、図書館の世界では IFLA の Functional Requirements for Bibliographic Records なんかで Work - Expression - Manifestation - Item の4層モデルとしてかなりきれいに分析されてますが(オントロジーじゃないですけど)、これを博物館で使えと言われたら冗長すぎてヤになっちゃうんですよ。だからわざわざ別のモデルを作ってマッピングをしてるのです。これはドメイン・オントロジーですが、表現の問題がバッチリ密着してるんで、著者がトップレベル・オントロジーに必要と考えてる「表現のオントロジー」と関係が深くなっちゃうんですよ、どうしても。だから、合意できない前提がどんどん積みあがっていくのには、ついていけなくなってしまうんですよねー。
もちろん著者も「解の提案にすぎない」と断わってるんですけどね。しかし、僕自身は結局のところ徹頭徹尾工学的近似っていうか、まあ使えさえすれば「本質」のことなんか忘れてしまえ、という立場なのだなぁ、と、逆に実感したのでした。
自分が工学の人に期待するとすれば、開発方法論もですが、OWL のようなオントロジーの相互利用の領域と、メタモデルの領域でしょうか。「WWWの人々は極度に集中管理を嫌う。一方 AI 出身の人々は自由放任のタグを使って意味処理ができるわけがないことを知っているので、何らかの制御/管理が必要であると考えている」とのことですが、ここら辺、まとまって読めるものないかなー。
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December 29, 2004
BLOG HACKS
せっかく blog をはじめたので、とりあえず何かハックしとかないと、というわけで、買ってみた。
で、最初に使ったのが Amazon アソシエイトなんだけど、こんなことでいいんだろうか。もっと他にすることないんか。というか、単にリンクと画像を出す簡単な方法として、アソシエイトであればツールがあるから、これでいいや、と思っただけなんだけど。
本屋に行ってあらためて Blog 関係の本を眺めてみると、「人気者になる」「人を集める」系と、「カンタン副業」「ホームページで一儲け」系との2種類の欲望が渦巻いていて、なんだかものすごい。なんというか、油っこいですね。